人気ブログランキング |

カテゴリ:江戸検定( 83 )

武蔵国分寺史跡ツアー

 わたしがもう20年くらい通っている病院は 府中街道の西側
西国分寺駅の南西にあります
府中駅からバスかタクシーに乗ると「国分尼寺跡」や「伝鎌倉街道」の
すぐ横を通ります
いつか 行ってみようと思いながら 素通りしてましたが
最近のネット情報とアイフォンの使えることと言ったら
私のような方向音痴でも!一人で!初めての場所にひょいひょい
たどり着けるようになりましたので 先日の通院日 ひとり国分寺ツアー敢行しました
a0315830_16105034.jpg
どうよ 写真も撮ったのよ ここが「伝鎌倉街道」
昼間だから平気だったけど それでも雨でも降ってたら 一人で通りたくないですね
鎌倉に幕府ができると そこから各地へと延びる道ができます
ここは その内の「上つ道」ですね
古代官道の「東山道武蔵路」とほぼ同じで 上野・下野へ通じていました
まっすぐ北上する感じです
ここを北から抜けると 「国分尼寺跡」に通じています
途中は 切り通しで 昼なお暗く たまに自転車が通るくらい
人気(ひとけ)もないし 横の黒鐘公園では以前死体遺棄事件があったのでね
ま、そういうとこ、と思って 通りましょう
a0315830_16544368.jpg
薬師堂前の仁王門です
武蔵国分寺は 分倍河原の戦いで敗走する途中の新田義貞が 焼き払いましたね
しかしその二年後 やっぱり悪かったと思ったのか 今の金堂跡地のところに
薬師堂だけ 寄進しました
その後江戸時代に現在地に建て直されましたが
この仁王門の柱は 義貞が寄進した観音堂の木材を使っているそうです
薬師座像は 平安時代のもので 二メートルくらいあるもの
こちらは 現在10月10日のみ御開帳となります
a0315830_17060719.jpg
そしてこちらが 現在の国分寺の山門です
この山門は もともと「米津寺」(現 東久留米)にあったもので
明治のころに買い受けて 移築しました
この寺は かの米津(よねきつ)田盛が創建した菩提寺で お墓は今もあります
父・田政が初代の江戸北町奉行で 田盛は大阪定番をつとめ 河内国で
一万石を加増され 大名になりました
江戸図屏風に 屋敷図が載っていますね
a0315830_17240354.jpg
辺り一帯は 国分寺村の名主・本多家の方が今もお住まいになっていて
このような立派な蔵も残り 湧き水横で 採れたての野菜が売られています
江戸時代の長屋門も残っていて 実にすてきなところ

a0315830_17391760.jpg
この辺りの村は 尾張徳川家の鷹狩御用を仰せつかり この道は今「お鷹道」と呼ばれ
元町用水・清水川とも呼ばれる湧き水の流れに沿って 散策できるようになっています
この流れには ホタルの幼虫・カワニナが住んでいるくらいきれいなんですよ
a0315830_17444843.jpg
その元町用水と野川が合流する地点にかかっているのが不動橋
川面に こいのぼりが ゆらゆらと泳いでいましたので 橋の上から撮りました
ここから坂道を上ると もう国分寺駅です
a0315830_17490050.jpg
国分寺駅 南口すぐにある 三菱の岩崎家の別邸「殿ヶ谷戸庭園」
ここは 国分寺崖線に建つ別荘の典型みたいな造りです
「武蔵野夫人」大岡昇平のモデル地になったところ
そして仙川の武者小路実篤邸もそうですが
この岩崎別邸の茶室「紅葉亭」からの眺望は びっくりしますから
時間があったら ぜひこちらもお寄りください
旧岩崎邸とちがって こちらは純和風ですが 暖炉の煙突も残ってます
秋の紅葉がきれいだそうです





by tukineko-diary | 2019-04-23 16:38 | 江戸検定 | Comments(0)

青衣の女人 しょうえのにょにん

    a0315830_11382293.jpg
 庚申塔の謎を考えている最中 江戸検一級会の
 矢島さんから「金輪院に始まる半裸の女性も謎です
 が 奈良・東大寺「お水取り」には青衣の女人とい
 う謎の女性が登場します さてその正体は・・」
 というお名指しでの謎のプレゼントがありました
 この手の謎ときが私は大好き!
 ボールを投げてもらった犬のように 喜び勇んで
 駆けまわります(ま、主にネット上をですが)
 メールで回答を送ったところ「よし、よし」と
 お褒めにあずかったので ブログにも書いておきま
 しょう
さて現在は「東大寺」のHPという便利なものがありますので
「修二会(しゅにえ)」)のことも詳しく書かれています
正式には「十一面悔過(けか)」と言い 悔過とは今で言う懺悔のこと
十一面観音の前で日常の罪業を懺悔して 天下の安泰を願う法会です
旧暦二月 現在は三月一日から二週間 行われていますね
これは 開山良弁(ろうべん)僧正の高弟・実忠和尚(じっちゅうかしょう)が
天平勝宝4年(752)に始めて以来 戦火に合おうとも一度もとぎれず
現在まで続いている法会です
この法会の中で 三月五日の実忠忌の夜と12日のお水取りの夜
二日間に限って練行衆により「過去帳の読み上げ」が行われます
この過去帳は「聖武天皇 聖母皇太后 光明皇后・・・」から始まるもので
主に二月堂に関連した人 そして参篭した僧侶の名前が主で
二月堂内陣に保存され 正式には「東大寺上院修中過去帳」と呼ばれています
さて 時は承元の頃(1207~11)鎌倉三代・実朝の時と思ってください
この過去帳読み上げのさなか 女人禁制の二月堂の中に青の衣をまとった
女人が姿を現し「なぜ我が名を読みおとしたるや」と悲しげに問いかけたのです
読み上げを行っていた僧侶・集慶(じゅうけい)は とっさに その姿から
「青衣の女人」と 読み上げ 女は微笑んで姿を消しました
それ以来八百年が経とうとしていますが 青衣の女人は毎年 その名を読み上げられ
今に 続いているのですね
しかし その正体となると これは難問!
頼りになるのは わがパソコンばかりなので これを使って
まずYou-tubeでこの読み上げ部分を見てみました
同時に 過去帳の一部(↑に載せたもの)と奈良教育大学のこの過去帳読み上げを
音 テンポをとって「譜面」にしたものを 見つけました
そこで推測その一 過去帳に載っていないが この時以前に亡くなった
二月堂か その前に載る人名に関連した女性
そこで過去帳を見ると 僧侶以外でその直前に載るのは
「当時造営大施主将軍頼朝右大将」
そしてその前には「後白河天皇」の名があります
うわあ どちらも 思い切り怨まれそうなビッグネームですね
そしてもう一つの推測ですが これは読み上げの速度と声の高低からです
「青衣の女人」は 過去帳の二段目 最後から二番目に読まれます
この二段目には 他に井上親王・祟道天皇など 恨みを持って亡くなった方の名も多く
この読み上げが段ごとにスピードを上げ 高声になっていくのに反し
これら祟り神の名は とてもゆっくり低声で読み上げられるのです
You-tubeで確認すると「青衣の女人」も 全く同じ
つまり恨みをのんで死んだと誰もが認識できる女人・・・
さあ 誰だと思います?
矢島さんが仰るには 今はわざわざこの読み上げを聞くために
青い服を着て 参加する女性もいるということです
勇気ありますねー

 

by tukineko-diary | 2019-04-19 13:30 | 江戸検定 | Comments(0)

しょうけら・・・庚申塔の謎

                              a0315830_12323849.jpg
 このところ何日か「江戸検一級会」の人たちとのメールで
 ←「庚申塔」の話題が 盛り上がっていました
 こういうのお家の近くで見かけませんか?
 字だけの簡単なものは あ、庚申塔なんだなと認識できますが
 「青面金剛明王」が彫ってあるものは 風化摩滅して 何だか
 わからなくなったものも多いです   
a0315830_12413565.jpg
 次に多いのは このタイプ→
 青面金剛が合掌してるタイプ
 本当は 腕を6本お持ちですが
 摩滅して見えなくなっています
 本来は残りの腕に鉾や輪を
 持っていますよ
               
 
a0315830_12483135.jpg

 ←これは 比較的に摩滅が少なく
 合掌型と違って 前二本の手に
 右手=剣 左手=幼児のような
 ものを持っています
 問題なのは この「幼児のような 
 もの」
 これの正体って何なのでしょう?
 たまたま家の近くのこれは 足を縮めているので
 幼児のように見えますが 他の庚申塔では 着衣の人
 もしくは半裸の人のように見えるものもあります
 例外なく髪の毛をむんずとつかんでぶら下げていますよ
 そもそも青面金剛というのは インドの古代神話に出てくる
 夜叉の一つでしたが 仏教や道教と結びつき 日本では
 人体内部に住む「三尸=さんし」という告げ口する悪い虫を
 退治してくれる善神となりました
庚申の日は眠ってしまうと この三尸が身体から抜け出し天帝に日ごろの悪事をばらされ
寿命が短くなったり 病気になったりしてしまうのです
a0315830_13220029.jpg
右の絵は 道教の三尸の図で 右は頭にいる上尸
中が胴体にいる中尸 左が下半身担当の下尸です→
この三匹の虫たち 別名「しょけら・しょうけら」ともいいます
この呼び名は室町頃の「庚申縁起」にはもう「しょうけら」
となっていて どこから来た呼び名やらこれも不思議
これが江戸時代になると 各種妖怪絵巻に描かれるように
なります
a0315830_16164864.jpg

 「図画百鬼夜行」
 鳥山石燕の「せうけら」
 どうでしょう 屋根の上から家人が寝入るのを見張って
 いるようにみえます
 そして三尸の中でも 外見的には中尸に似ていますね
 江戸時代 庚申信仰はあっという間に広がり 当時は
 村ごとに信仰したようなので 本当にたくさんの庚申塔が
 建ちました 
 どれも邪鬼を踏んだ青面金剛に 日月 三猿 雌雄の鶏を
 あしらった・・・というデザインが主ですが 一つ 地域
 や時代によるのでしょうか 青面金剛の左手がつかんでいる
 おそらく「しょけら」といわれているものの形状が 様々
 なのです
a0315830_17063287.jpg
 →これは 江戸検仲間の長澤
 さんが送ってくださったもの
長髪で着衣の人物が 両手をあわせているように見えます
a0315830_17194824.jpg
かと思えば 上の奈良金輪院の本尊掛け軸にある ↑ この姿
これは女性のようにも見えますね
かように 種々さまざまなので この左手の正体は 子供説 女性説
いろいろあって わからないです
私の住んでいる府中市の場合は すでに庚申塔コレクターの方が
所在地付きの写真を ずらっとアップしてくれていますので 今度じっくり
眺めてこようかと思っています
あなたのご近所の庚申塔 どんなタイプですか? 
 



 


by tukineko-diary | 2019-04-18 17:55 | 江戸検定 | Comments(0)

五條天神の歴史


a0315830_09544036.jpg
↑「五條天神社」ってあるじゃないですか 上野公園内の花園神社の横に
「江戸名所記」には「うし天神」って載っていますね
a0315830_10010419.jpg
↑ 「江戸名所記」の挿絵です
寛文2年のものですので あの明暦の大火の後 すでに黒門の右手に移った時ですね
左上の小さいお堂が「うし天神」なんでしょうねー
a0315830_10112305.jpg
ひじょうに見にくいですが 赤丸の中に「うし天神」とあります
これは大火後に急いで作られた地図で「新板江戸大絵図」といいます
国会図書館デジタルライブラリーで 見ることができますよ
不思議なのは「うし天神」と言われた時期が 大火後のこの時期だけらしいのですね
この天神が初めて文献に出てくるのは「北国紀行」(尭恵 1487)の中で
「むさし野の境 忍の岡に遊びに行くと ここに鎮座する社があって五条天神という」
この1487年というのは 当時の江戸城主 太田道灌が刺殺された翌年のこと
忍の岡というのは 後に寛永寺が建つ辺り一帯をさしますので
そこのどこかに「ごじょうてんじん」があったのは確かです
そして約百年後 ここらは徳川氏の領地となります
そうすると 五條天神は 忍が岡の「擂鉢山(すりばちやま)」の上にあった
という記述がみられるようになります
今現在「摺鉢山古墳」として 上野公園内に残っていますね
a0315830_10542609.jpg

 ← ここです ここの説明板には ここから
 土器などが出て1500年前の前方後円墳だと
 書いてあります
 そして「北国紀行」をあげて この上に
 五條天神があったということ そして寛永
 8年(1631)には清水観音堂も建ったとあります
 しかし観音堂は 63年後の元禄7年(1694)
 寛永寺の根本中堂建設工事のため 現在地へ
 移されてしまいます
 じゃあ五條天神も この時移ったのでしょうか?
 とりあえず 寛永期の観音堂みてみましょう
a0315830_11313634.jpg
うわー 見にくいけど「江戸名所図屏風」です
下のぼんやりした赤丸で囲ったところが清水観音堂 まさに摺鉢山の上だったはず
右横に屋根の上部が見えていますが 五條天神があったとしたらこれでしょうねー
この辺の所「御府内寺社備考」でみてみましょう
「この天神社は往古 上野山内天神山(俗に摺鉢山)にあり 
 寛永15年(1638)日光東照宮建立のことで青蓮院宮が江戸参府の折
 同伴した瀬川昌佐が大猷院(家光)にお目見えし 連歌御用を申し付けられ
 地面を拝領 同18年 大猷院 上野御成りの節 昌佐の家を見て 
 天神山の天神の別当を申し付けられる
 その後明暦三年まで 上野山下に住まいしていたところ
 厳有院(家綱)の時(明暦の大火により)上野広小路に移る」
どうやら この時に 黒門前に移ったようですね
「常憲院(綱吉)の御代 寛永寺中堂建立の際 引き移りを命じられるが
 相応の地がなく 社地ではなく連歌師として拝領した地に 社頭を立てた」
a0315830_12525122.jpg
↑の「嘉永の切絵図」だと④のところに「五条天神」 左に「瀬川ヤシキ」とあるのもわかります
江戸名所図会では「祭る神 少彦名命一坐 本朝医道の祖神にて五条天神と称す
北野天満宮を相殿とす 菅神の像は慈眼大師(天海)開眼ありて当社の相殿に
鎮座せしむ」とあります
たぶん瀬川氏が別当になったあたりで 菅原道真の像を相殿にしたのかな
それで「うし天神」と呼ばれたのかもしれません
化政期の「遊歴雑記」では「五條の天神 当社の額には『五條天神宮・天満天神宮』と
二軒にしたためれば 二神を相殿に勧請せりと見ゆ 
市中にはさまりて社内せましといえども 古式ある社・・・」とありますね
「うけら神事」「追儺式」もつづいていたようです
明治の記録にも出てきますので この後は 大正の関東大震災まで ここにあったのでしょうか
震災後なかなか再建できずに 昭和3年 現在地花園神社(旧 穴稲荷)の隣に
遷座できたというわけです
a0315830_13180656.png

 山下の「五條天神旧社跡地」も アメ横の入り口
 辺りに残っています
 「梅紋」なんですねー
 医薬神の時代は 神紋なかったのでしょうか
 それと現在は 大己貴命(おおなむちのみこと=
 大国主)も 一緒に祭られている、というか
 由緒がそれになってますが 江戸名所図会では
 いないのは なんでかな?
 いろいろ謎の多い五條天神ですが ここまで調べて
 一応 納得しました
 最後に現在の位置関係 載せときます
a0315830_13184676.jpg
今度 一回 全部回ってみようと思いますよ







 

 

by tukineko-diary | 2019-04-08 13:36 | 江戸検定 | Comments(0)

江戸名所 回向院の成り立ち

a0315830_12444964.jpg
↑は「東都名所回向院」です
順番として 「あづまめぐり=色音論」を書こうとしたら
こちらも「江戸~ロンドン」のブログが 検索に出てきますのでやめました
こちらでは その補足として「明暦の大火による名所の変化」を
まとめておこうかと思います
まず焼失地ですが 中心部は西の丸近辺を残し丸焼け
天守閣は この後 再建されませんでした
古い絵図に天守閣があれば 明暦3年以前ということですね
反対に 大火後にできたものといえば 両国回向院です
この大火では 10万人という死者がでましたので
とりあえず 川向うの牛島新田に 穴を掘って 埋めました
a0315830_12451635.jpg

←これが「むさしあぶみ」(浅井了以)による初期の回向院の様子
この時は 誰と分からぬ焼死体をいっしょくたに埋めたわけですから 回向院は「諸宗山 無縁寺 回向院」といいます 「どんな宗派でもいい 無縁でもいい 回向しますよ」という意味ですね
過去帳には二万二千人しか名前がありませんが もちろん当時の江戸には独り者も多かったでしょうし 名前もわからないというのが実情でしょう
のちに小石川智香寺の信誉上人が住み 寺院を建立して回向院となりました
そして この後 相撲の興行や全国の社寺の出開帳が行われる
江戸屈指の歓楽街へと 変貌していくのですね
大橋=のちの両国橋がかかるのは 火事の二年後 万治2年(1659)のことです
江戸の中心部に初めて橋がかけられ これによって隅田川の東岸
本所 深川が あらたな遊行場所に加わっていくのですね



by tukineko-diary | 2019-04-04 13:15 | 江戸検定 | Comments(1)

江戸の花見

a0315830_15112768.jpg
年表・・・ってお持ちでしょうか?
普通は 持たないですか? それとも持ってて当たり前なんでしょうか?
自分が「年表好き」なので ちょっとわかりませんが
今から一冊買おうかな、という方 小学館の「江戸東京年表」おすすめです
読むものがない時 私は適当なページを開いて読んでます
何十回 何百回 開いても新たな発見があるものです
今日見つけたのは 寛永12年(1636)の文化のところに
「この頃より 上野寛永寺で観桜が行われるようになる」という一文
寛永寺は その名の通り寛永2年に建っていますから
十年たって 桜が見事に咲きそろうようになったのでしょう
同じく 寛文2年(1668)の文化覧には「このころより江戸の武家・町人
の間で 観桜が盛んになる」と あります
明暦の大火(1657)から11年が過ぎ ようやく人々が観光できるまで
世情も 復活してきたのでしょう
「当時の第一は 上野東叡山 次が浅草寺(↑の絵も奥山の花見の図です)
その他の名所として 谷中感応寺 四谷自性院 芝大仏 渋谷金王八幡 柏木円性寺」

が 上がっています
この頃の感応寺は まだ日蓮宗ですね
「江戸名所記」には 「上人の御忌10月13日には諸人 市のごとし」と
書かれています 江戸後期の頃には「鬱金色(うこんいろ)の桜が
植わっていたということですが 寛文の頃はどうだったのでしょう
四谷自性院というのは 今は西落合の通称「猫寺」
江古田ケ原の戦いの時 一匹の黒猫が道に迷った太田道灌を
この寺まで導いたという話が伝わる古刹です
秘仏 猫地蔵は節分会の時 開帳されます ねこ好きさん 行かなくちゃね
芝大仏は東海道に面して寛永12年 但唱木食が建立
江戸中期には 火事で失われていますが みごとな桜並木があったそうです
嘉永の切絵図では 泉岳寺の左となりにある「大仏 如来寺」というのが それでしょう
渋谷金王八幡は 今も同じところにあります
源義家の従者だった金王丸が 義家が風呂場で殺されちゃったあと
出家して故郷に帰り 植えたという金王桜は この当時も古木で
白い花がまばらに咲くだけだったそうですが 人気があったのですね
「金王桜まつり」も 今でも続いていますので ぜひ一度行ってみてください
渋谷区の指定天然記念物です
最後の柏木円性寺は「右衛門桜」ですね
これは「江戸・東京 ときどきロンドン」で 書いていますので省略します
スマホで検索すると二番目に出てきますから 未読の方はどうぞ
私も 今 読み返しました
付け加えるなら 右衛門の名前の由来ですが 当時の地誌でも諸説あり
「源氏物語」の柏木(右衛門督)が 女三の宮と不倫して 東国に
飛ばされたときに植えた・・・というもの
もう一つは 枯れそうな桜の古木を哀れに思った浪人(右衛門)が
接ぎ木をして みごとに花を咲かせたから・・・
うーん 源氏物語は小説だからなー 真実らしいのは後者だけど
お好みで いいんじゃないでしょうか 
 

by tukineko-diary | 2019-04-03 16:55 | 江戸検定 | Comments(0)

小金井観桜

  a0315830_20071792.jpg
3月29日は 江戸検一級会の
長澤さん(別名 百街道一歩さん)が 案内してくれる小金井・お花見歴史ツアーに 行ってきました
長澤さんの玉川上水ツアーの後編でもあります
花小金井駅で待ち合わせて 少し寒かったのですが気持ちよく歩けましたよ
王子の扇屋のように ここで有名だったのは「柏屋」です
今も いろんな所に屋号が残っ ていますよ

小金井橋の両岸に 桜の木が植えられたのは元文2年(1737)吉宗の時代ですね
新田開発に伴い 人も多くなり やがて都下の桜の名所となっていきます
ちなみに植えたのは わが府中市・押立村出身の川崎平右衛門さん
この方は 私費を投じて治水・殖産に尽力した方で
赴任した先々で 供養塔や神社がたっています
寛政9年(1794) 古川古松軒の「四神地名録」
そして大久保峡南の「武埜八景」(ぶやはっけい・武蔵野の名所八か所)
にも「金橋観桜」として 挙げられています
太田南畝も「調布日記」に書いて 激賞してますね
おもしろいところでは あの西郷隆盛に嫁いだ糸さんのおじいさん
薩摩藩士・岩山直郷も 来て柏屋の主人と桜の枝に和歌をつけたものを
やり取りしたという記録が 残っています
小金井桜樹碑は文化10年(1813)に建っていますので それ以降のことです
小金井の観桜が最も盛んだったのは 文化文政期以降でしょうか
南畝もこの頃ですし 佐藤一斎が林述斎に誘われてきたのも文化3年
35才の時です
この年の一月末 一斎は天才少女と言われた8歳の娘を亡くしています
梅の季節に「梅の花 散りても香る 夕べかな」という歌を残し
はかなくなった娘・きそを想い 一斎はこの歌に漢詩を添えて
深く悼み それが評判になっていました
林述斎は 美濃岩村藩主の三男で 林家に養子に行った人です
いわば 一斎の藩主の子で 二歳年上の友人と言ってもよいでしょう
きっと 梅の季節の悲しみを 桜の花で癒せたら・・・という
述斎の思いやりでは なかったでしょうか
その他 越前丸岡元藩主・有馬誉純(ありまなずみ)も 文政9年に来て
「金井観桜」という絵巻を残しています
宇田川町の下屋敷から遠馬できて 漢詩をよみ 侍女たちは和歌を詠む
武家の観桜は 教養がないと無理ですねー
あと一つ 御三卿・清水家の家臣だった村尾嘉陵の「江戸近郊道しるべ」
に おもしろいことが書いてあります
「小金井の桜は 牛込服部坂(現 文京区小日向)の上にある
道栄寺の桜と 盛りの時が同じである
小金井の桜を愛でようという人は ここの開花を確認してから行けば
花の咲きように大きな違いはない」
道栄寺 今もありますが 桜・・・あるんでしょうか?
誰かお近くの方 確かめていただけないでしょうか

打ち上げは 花小金井駅近くのコスパ最高の「虎居」でした
長澤さん 感謝です!




 

by tukineko-diary | 2019-04-02 13:20 | 江戸検定 | Comments(0)

江戸名所図屏風と向井将監

a0315830_11414004.jpg 
 江戸検お題の「新江戸名所」から 「江戸名所図屏風」を久々に
 検索していましたら な、な、なんと!
 五年前に「この絵を描かせたのは 御船手頭・向井将監の息子」説
 が出て 翌年にはいきなり重文指定!
 今 また この屏風に関しての研究が活発になっているんですって!
 へー…と思いながら 図書館に行くと 予約していた本が ←これ!
 「向井将監の息子」説を発表した黒田日出男先生のまさにその本!
 読みだしたら かっぱえびせんに勝る「やめられない感」で 途中
 ひえ~ ほえ~と感嘆の声を上げながら 一時間くらいで読了
 まちがいなく ここ数年で一番 おもしろかった本でした
 内容も ひえ~!なんですが 同時に 研究者の書いた本が素人に
 ここまで面白く読めるということにも感動しました
 そして種明かしされてみれば ああ、なんで今まで誰も気づかなか
 ったんだろう・・・という納得感があります
 注意深く 様々な面から 検討して行けば もしかして私にだって
気づく機会はあったんじゃない~!?と 思わせるぐらい 無理のない解釈でした 
歴史ミステリーの傑作ですね
これまで読んだものでは「文政十一年のスパイ合戦」
あのシーボルト事件を題材にした歴史ミステリーが 一番好きでしたが
これはもうその上をいくかな?
本当は 歴史好き ミステリー好きのすべての人にお勧めしたい
しかし!一つだけ 条件があるの
幕末よりも 赤穂浪士よりも 明暦の大火前の江戸に興味がある人
江戸と言えば幕末ばかりフューチャーされるのが ちょっと残念な方
そういう私のような人に読んでいただけたら はまること間違いなし!
五年もたってから いうのもなんだけど 
この感動を共有したいので ぜひ読んで!





 

by tukineko-diary | 2019-03-27 12:34 | 江戸検定 | Comments(0)

江戸名所図屏風にみる初期の名所

a0315830_14155590.jpg
↑上のような解説本が 何種類も出ていますので これを買うなり
図書館で借りるなりして それから出光美術館か江戸博で
屏風全体を見るのがいいかなと思います
江戸初期の絵で見る実際の町は とても貴重な史料です
とにかく江戸は4代・家綱の時の明暦の大火で
多くの資料・宝物 そして建物が焼き尽くされてしまいました
寛永期の江戸の町の様子を 目で見るのはもうこれっきゃない!と 思うのです
ま、お高い地図もありますが やはりこれが一番
大火以降 再建されなかった天守閣も まだ立派にそびえています
これは家光の時に建て替えられた黒っぽい天守閣ですね
そして やはり大火以降は 浅草田圃に引き移った吉原も
現在の人形町あたりの芦っ原にあります
天下の日本橋の賑わいも 見てください
行き交う人の風俗・職種も 興味深いです
江戸が爆発的に栄えていくのは 参勤交代が始まった寛永12年以降ですが
この頃のまだ地方都市っぽい江戸の華やぎ
名所と祭を ぜひご自分の目で確かめてみてください



by tukineko-diary | 2019-03-24 15:05 | 江戸検定 | Comments(0)

江戸初期の名所ー「慶長見聞集」より

 a0315830_17222029.jpg
 以前にも書きましたが「慶長見聞集」
 古書店で ←これや岩波文庫版もあり 
 ますが ネットの「国立国会図書館
 デジタルライブラリー」
 少し前まで「近世デジタルライブラ
 リー」と呼ばれてたもの、で 簡単に
 読めます
 今ではI-PHONEでも お手軽に読めるので
 本当に便利です Google入れて検索するだけ
 ですので みなさん大いにお使いください
 もう資料探しもパソコンいらずですよ
 ありがたや ありがたや・・・
 さて作者の三浦五郎左衛門茂正は 永禄8年
 (1565)生 80才まで生きて三代将軍家光
 の時に亡くなっています
13才で 北條氏政の臣となり 小田原篭城が26才で 主家滅亡の後
剃髪して 江戸に出て 天海に帰依し 浄心となのります
35巻に及ぶ書物を書き残し その内北條氏に関わるものは「北條五代記」
甲陽軍艦の評論は「見聞軍抄」 遊女・歌舞伎に関するものは「そぞろ物語」として
出版されましたが 残りの十巻分が「慶長見聞集」となっています
「江戸名所図会」でも ここからの出典が多いですね
地誌や名所案内ではなく 今で言う風俗エッセイみたいなものですが
慶長期の記録としては 貴重なものです
出てくる地名は お決まりの待乳山・浅茅ヶ原・梅若の母の庵あと鏡池など 
角田川の近辺が多いですが やはり徳川家の入国後は 日本橋も出てきます
あと湯島天神や愛宕山の参詣ですね
この頃は まだ芦の植わった原っぱにあった吉原町の遊女歌舞伎のことも出てきます
また毎日のようにある「勧進能」の人出もすごく 浄心さんは両方見に行ったのでしょう
遊女歌舞伎は その天女の如き美しさを絶賛し
能の「船弁慶」では ほろほろと涙をこぼしています
結構 遊び好きの坊さんだったのかも・・・
そして この頃の観光に関して こんな風に語っています
他所から来た知り合いに「おもしろい所」はないかと聞かれ
「よその名所旧跡のように 派手なところはないが 例えば梅若の墓所など
 柳の木が目印となるばかりだが 歌枕となったところへ行き
 ただそこの原に座って 酒など飲み 歌を作って楽しむのだよ」
と答えています
当時の観光って 文学部のピクニックみたいだったんだなー と 思いますね

今日はこんなところで・・・




 
 
 

by tukineko-diary | 2019-03-23 18:23 | 江戸検定 | Comments(0)