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怪談読書 八月後半

大河ドラマ またパラリンピックでお休みになりました
次回は9月12日に26回「篤太夫、再会する」が放映予定です
今年の大河は41回なので残すところ16回となりました
最終回は 12月26日だそうですよ
その頃 コロナ治まってるといいなー・・・
仕方なくまた本を上げておきます あいかわらずミステリーか怪談です
怪談読書 八月後半_a0315830_09300314.jpg
もう事典も読みます 前から読みますけど 
あと年表や暦も読みます 
「カレーは飲み物」っていいますが(主に大食いの方々が)
それを言うなら 辞典も読み物
なかなか おもしろかったですよ
アジア・オセアニア・北アメリカ・南アメリカ・ヨーロッパ・アフリカ
と 地域ごとに網羅 お国柄が分かる構成ですね
タイの現代怪談は 日本とそっくりなものもあり 
いかに日本文化が伝わっているか もしくは似通った国民性なのか分かったりもします
反対に 日本の「子育て幽霊」は わが子を心配して出てくるのですが
ロシアでは 子供に悪さをするととらえられるのです 不思議ね
その他 日本なら「河童」と呼ばれるだろう川からくる子どもたち
同じ「人魚」でも人を惑わすのから 襲いかかる怖いやつ・・様々です
古くからの「バネ足ジャック」や「さまよえるオランダ人」もありますが
現代のネット怪談や都市伝説も載っています
私が面白いと思ったのはアメリカの「This man」
ニューヨークの精神科で 患者女性が度々夢に出てくる男の似顔絵を描きました
するとある時 別の患者がその絵を見て 僕の夢に出てくるのもこの男だと言いました
医師はこの事を同僚に話すと またその患者にも「この男」を夢で見た患者が出てくるのです
結局今では二千人くらいの人々の夢にこの男が出てくるという事態になりました
これは 情報の伝播の実験だ、とか 暗示性に関する研究とか言われていますが
とりあえず 創作にはちがいない ということになっています
アメリカ人ほど 日常的に精神科(メンタルクリニック)に行かない日本では
広まりそうもない話です
「This man」 Googleで検索すると 絵が出てきますが
見るとあなたの夢にも この男が出てくるかもしれないので 
自己責任でお願いします


# by tukineko-diary | 2021-08-31 11:20 | 本の話 | Comments(2)

徳川昭武と明治天皇

大河「青天を衝け」で 昭武役を務める男の子が可愛いと大人気です
おかげで「昭武さま、これからどうなるの?」というご心配の皆さまへ
ちょっと書いておきましょう
徳川昭武と明治天皇_a0315830_15593034.jpg
↑ この絵はご存知でしょうか?
聖徳記念絵画館(新宿区外苑前)の壁画で「徳川邸行幸」というものです
徳川邸というのは 隅田川東岸にあった水戸藩の屋敷ですね
今は「隅田公園」になっています 吾妻橋を渡ってすぐ左側です
明治10年 明治天皇(中央)は 桜咲く小梅邸を訪れ 隅田川での投網漁を
ご覧になりました 昭武は左端の人物です
二人は 年齢も近く(明治天皇が一つ上)この時は24,5才でしょう
なんだかんだ言っても 維新から9年で 天皇と旧幕府の水戸家の関係は 
修復されたということなんですね
昭武はこの後 フランスに再留学したり 欧州旅行をしたり アメリカの万博にも行ってますね
明治16年 30才で 早々に甥に家督を譲り 翌年 今も残る松戸の戸定邸に移りました 
ここでフランス留学に随行した元水戸藩士と 交流したりもしています
引退後は しばしば駿府の慶喜と往来し 写真撮影や狩猟など共通の趣味を楽しみました
明治43年(1897)行幸のあった小梅邸で死去 享年58才でした
残念ながら 渋沢栄一との主従関係は 帰国後はとだえました
その辺の経緯は 次回の大河でもやるでしょうから 書きません

聖徳記念絵画館には この他 主に明治天皇に関連した壁画がいろいろありますが
よく教科書にも載る「大政奉還」の絵 二条城のね あれもここにあります
岩倉具視の病床を訪う天皇・・とか 思わせぶりなものもありますので
コロナが終わったら また見に行きたいですねー

# by tukineko-diary | 2021-08-26 17:42 | 大河ドラマ | Comments(0)

三野村利左衛門のこと

三野村利左衛門のこと 書こうと思いましたら もう「検索ワード」も上がってるし
Wikiもあるし 三井広報から写真もちゃんと上がっているので まあ要約みたいなこと
書いておきましょう
とても面白い経歴の人なんでね
三野村利左衛門のこと_a0315830_11431821.jpg
↑ 興味のある方は こんな本もあります
この人 元は庄内藩士の子なので 生まれは士族でした
小さい時 同じ藩士の家に養子に行きますが 6才で養家を出奔
実父と共に 諸国を遍歴します もう変ってますねー
18才で 江戸の干鰯問屋に就職 
その後 小栗忠高(忠順の父)の中間となります
その後数年で 今度は商家の養子に入ります
この時 美野川利八の名前を継ぎ 地道に蓄財して 10年で両替商の株を買いました
この「株」というのは 当時 その職業に就く権利という意味合いです
「御家人株」なんてのもありましたね 勝海舟のお祖父さんが買ったやつ
そして5年後の万延元年 旧知の小栗忠順から小判吹替の情報を得ると
天保小判を買い占め 巨利を得ます
そして 同じ両替商の三井家に見込まれ 幕府と御用金をめぐる折衝をまかされます
この後 三野村利左エ門と改名しました
この人のすごかったのは 小栗の失脚後 幕府の命運を察知し いち早く
新政府へ鞍替えしたこと
流浪の幼少時代を送り ひらがなしか読めなかったといわれますが
とにかく 時代を読める人だったのでしょう
明治になってからも 渋沢と共に 銀行設立を図り 第一銀行
そして念願の民間銀行 三井銀行を立ち上げます
残念ながら 直後の明治10年 胃がんのため57才で死去しますが
自分同様 京の商家・大文字屋から養子に来た利助が 実質的に社長となり
この利助は のち日銀の理事になっています
商才のある人が育てた 商才のある二代目・・・というわけですね
利左衛門は 恩ある小栗忠順の死後 妻子を深川に住まわせ 庇護したということですよ


# by tukineko-diary | 2021-08-26 12:26 | 大河ドラマ | Comments(0)

青天を衝け第25回「篤太夫、帰国する」

栄一くん、帰国して横浜の友人宅で これまでのことを聞きました 
回想での平九郎や川路聖漠、小栗忠順の死がありました・・・
さてこの帰国日 栄一の言では12月3日となっているものが多いですが
これは西暦になって以降のことで 当時の太陰太陽暦では11月3日です
約一か月のずれが出ています
年表では「11月3日 昭武 横浜に帰着」 とありますので こちらに合わせます
帰国後の栄一は 荷物の整理、費用の収支、函館の喜作に手紙を出す
などの用事を済ませ 血洗島に中旬には帰ると文を送りましたが
その前に 父が東京に訪ねて来て 柳原の梅田という武具店で 二人は六年ぶりに
再会しています この時 父はこれからの行く末を尋ね 当座の費用にと金子まで持ってきていました
親って ありがたいもんですねー・・・
栄一は 一橋家に仕えた時から倹約し蓄えもあるのでとこれは謝して断り
これからは 駿河に行って 前主の隠棲の傍らで生涯をおくろうと考えますと述べました
父が安心して帰った二三日後、栄一も久々に故郷血洗島に帰り
妻子に会い 旧交を温めますが ここにも二、三日滞在しただけで 
この月 15日にはまた東京に戻ってきました
そしてまた数日で 慶喜のいる駿府に旅立つのです
今回の大河 最後に面白い人出てきましたね 
青天を衝け第25回「篤太夫、帰国する」_a0315830_16461377.jpg
三井の三野村利左衛門です(イッセー尾形さんでした! ずいぶん貫禄がついて適役です)
「商人の戦は これからでっせ!」
そうですねー 三井銀行つくりますからね
そして 栄一が その才能を開花させるのも これからでっせ!
 

# by tukineko-diary | 2021-08-25 16:53 | 大河ドラマ | Comments(0)

板倉勝静と戊辰戦争

大河ドラマではやはり戊辰戦争スルーが決定のようなので書いておきましょう
1868年の一月の鳥羽伏見から 翌年の5月 函館五稜郭までの約一年半
これをざっくりと戊辰戦争といいます
いきなり官軍となった薩長に対し これに従うか 謹慎して中立を保つか
またはあくまで徳川に忠誠をつくすか 諸藩は苦渋の選択を迫られました
そんな中 ↓ この人板倉勝清(かつきよ)のことは書いて置かないとね
板倉勝静と戊辰戦争_a0315830_12035585.jpg
徳川最後の将軍が慶喜だとしたら 最後の老中は この板倉勝静
備中松山藩の藩主です 松山は今の岡山県の高梁市(たかはしし)ですね
戊辰戦争が始まると 薩長軍は岡山藩に錦旗を渡し 松山藩討伐を命じます
勝静は すでに慶喜と共に江戸に下っていましたから 困った松山藩は
勝静を「強制隠居」したことにして 前藩主の従兄妹を藩主にして
官軍に鞍替えし なんとか戦火を免れました
しかし勝静の方は 慶喜が謹慎すると 老中職を辞し 新政府軍から逼塞処分を受けて
日光・宇都宮と移されますが ここで大鳥圭介率いる旧幕府軍に開放されると 
奥羽列藩同盟に参加して その参謀になってしまいます
そして従った松山藩士ともども 函館・五稜郭まで転戦しちゃうんですねー
当時「神君の恩義に報い 徹底抗戦!」と 戦う気充分だった大名たちも
国家老がふっとんできて 国元へ連れ返られるのがほとんど・・・というなか
なぜ 西の松山藩主が こんなに頑張ったのかというと
この人 板倉家に婿養子に来たけど 元は奥州白川藩の藩主の子
六男だから養子に行ったけど おじいちゃんはあの松平定信
ということは 自動的にそのまたおじいちゃんは 八代将軍吉宗です
四代前は将軍・・・血統としたら バリバリ徳川家なんですねー
しかし いつまでも新政府に歯向かう殿さまに 困ったのは松山藩の家臣たち
とうとう 勝静自身が藩政を託した切れ者の山田方谷は 家臣をプロイセンの商船に乗せ
函館にやり 半ば強引に前藩主を東京に連れ戻しました
このあと 勝静は自訴して 松山藩は再興されます
幕末の藩主の動静は いろいろあっておもしろいですが 函館まで迎えに来られたのは
この板倉勝静だけでしょうねー
大河に出て来たら 最後の老中は この人かー、と 思って見てあげてね




# by tukineko-diary | 2021-08-21 16:24 | 大河ドラマ | Comments(0)