明治11年(1878)まで進みました
だいぶいろいろ飛ばしましたね
「西南戦争」も 一瞬でかたづけられ ちょっと淋しかったです
41回で終わりなので もうあと8回を残すだけ これからは飛ばしてくのかな?
栄一は宮仕えしたのは3年ほどですし 大蔵省は政府の中でも孤立してましたから
飛ばしちゃうんでしょうねぇ
では 明治政府がここまでどんな風に進んで来たか ざっくりとまとめてみます
まず明治2年 戊辰戦争が函館で終局すると 新政府は敵対した諸藩の領地を没収
直轄地とします もちろん徳川の直轄地もです 版籍奉還ですね
同時に 薩長含めそれ以外の土地や人も 天皇の元に直属させます
これによって幕府を頂点とする封建体制の打破を図ったのですね
そしてこれまでの領主(大名など)は 公家と共に「華族」とし
家臣たちは「士族」それ以外は全部平民とします
そして元大名の華族は そのまま領地の「知藩事」とし 藩の全収入の
十分の一を給料としました
ここで大事なのは この知藩事という職は世襲じゃなかったこと
そして家臣との主従関係を断ち切ったことです
土地は全て天皇に返納し 民は全て天皇の臣下となったからですね
このほか 全収入の9%が陸海軍費として納められることとなりました
もちろん不満は出ましたが戊辰戦争の恩賞などでなんとかなだめたわけですね
維新政府が慶喜を長とする徳川と雄藩が政権をとった場合と比べ 唯一
すぐれていたと思える点は この素早い封建制打破のやり口だと思います
そして明治4年の「廃藩置県」で とどめです
藩は廃止され中央から「県令」が送られ 元の藩主たちは東京居住が強制されます
とうとう領地とは切り離され 給与は国が支払う形とし 中央集権が完成します
島津久光は怒って 一日中花火打ち上げちゃいましたね
(しかしこの収入も 明治9年には全廃され 一時的に公債が支給され終わりです)
さて この廃藩置県の直後 政府内での対立が大きくなって行きました
参議となった木戸孝充と大蔵省の大久保利通との対立
大久保は大蔵省内部からも突き上げられていました
そこで木戸派の井上馨が大久保に洋行を勧め これに木戸や岩倉具視
案内役の伊藤博文まで加わり 不平等条約改正をうたった大使節団となって出発しました
残された留守政府では 大久保に代わり大蔵省の井上馨が「禄制改革」に取り組み
政府の大きな負担となっていた華族の給与引き下げを図ります
しかし 予算をめぐる各省との対立で井上馨・渋沢栄一は大蔵省を離脱
翌6年には朝鮮との関係があぶなくなって その対応をめぐり西郷を含めた多くの参議が
辞職し これに同調する官僚・軍人も大量に辞職して帰京しました
これを「明治6年の政変」 主に朝鮮に対する「征韓論」をめぐる対立なので
「征韓論政変」とも言われます
朝鮮は当時の政権を握った人が 幕末の孝明天皇のような夷人嫌い
「日本も夷狄と化して禽獣と同じ」と言い 攘夷鎖国を断行していました
それに対し 戦争しても開国させようという強硬派といや国力が付くまで待とうよという穏健派
二手に分かれていました
強硬派にしても他国を犯したいというより 朝鮮が外国の植民地化するのは困る・・
という考えであったと思います
西郷隆盛は この頃すでに体調も悪く 自分が使節として行って 暴殺されたら
それをきっかけに 朝鮮に攻め込めば名分が立つ、と考えたようです
その望みかなわず野に下りたところ 矢継ぎ早の改革で窮地に立った士族が
とうとう「廃刀令」をきっかけに 不満爆発
そりゃそうでしょう 特に薩長土肥をはじめとする士族たちは 自分たちが
維新を達成したと思っています
それなのに藩はなくなり殿様も去り 職もやりがいも給料もなくなって
そのうえ武士の命の刀まで取り上げられたら どうやって生きればいいのか
佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱 みんな九州や山口県で起こっています
一括して「不平士族の乱」 そのまんまですねー
そして最後に明治10年の「西南戦争」です
西郷どんと前後して 木戸孝充も病死
翌年には 大久保利通も不平士族に暗殺されました
多くの犠牲を払った戦乱でしたが 皮肉な事にはこの西南戦争の恩賞・俸給をめぐって
不満を持った近衛兵が反乱を起こし53名が死刑となりました
竹橋騒動といいますよ
ここまで明治11年のまとめです
# by tukineko-diary | 2021-11-04 16:00 | 大河ドラマ | Comments(0)