堀直虎の墓所

a0315830_11294051.jpg
お墓好き・・・いえ掃苔家の皆さん
上の写真 どうです? なかなかいい「匂い」しませんか?
先日 堀直虎の履歴を見ていたら 墓所「種徳寺」とあり
てっきり須坂にあるものと思ってたら なんと港区赤坂!
え、え、~と思って 調べたら このお寺 嘉永の切絵図と同じところに今もあるんですねー
これはびっくり!
それも 天正19年に小田原から 麹町に移り 多分明暦の大火で赤坂に移って
それ以来 移転無しです
関東大震災も のりきったわけですか (その後の地上げも!) 
ここ 霊鳳山 種徳寺は臨済宗で 「江戸名所図会」には 狩野興意の墓もあると書いてあります
江戸前期の狩野派の絵師ですね
ネット検索では 「大名墓の残る寺」として出ていまして 堀家だけではなく
大溝藩 分部氏 黒羽藩 大関氏の墓所もあるそうです

私たちの代の江戸検一級会には かの「ハカマオー」の呼び名も高い墓好き、
いえ「掃苔家」がいましてね
いきおい私たちの江戸散歩は えてして「墓地行軍」と化すことが多かったのです
始めの方は なんで墓地ばっかり・・・と思いましたし
イメージと違う・・・墓場を徘徊する胡乱な集団・・・どうぞ知り合いに会いませんように
と 願ったものですが だんだん感化されて 今は一人で地元の墓場 うろつきます
暮れかたの人気のない墓地で 墓石の後ろから ふっと老紳士(多分同好の士)に
出てこられるとドキっとしますが だぶん相手の方も 驚かれてると思います
今度は 白いワンピースで来ようかと 思ったりして 
ちょっとした肝試しですね
その数えきれない墓地行軍で 都内の大抵の古い墓は 見たように思うのですが
この種徳寺 どうでしたっけ?
どうも 覚えがないようなのですが もしまだなら行ってみようかなーと思ってます
同好の士 おりませんか?
白いワンピースで行ってもいいですよ





[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-19 12:09 | 江戸検定 | Comments(0)

もう一人の直虎

a0315830_10580947.jpg
NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」が始まった時
「直虎」の商標権をめぐって ちょっとゴタゴタしましたね
「ウチの殿様も直虎だぜ!」と主張したのが 元須坂藩(現長野県須坂市) 
小布施の少し南にあった藩です
この「堀直虎」に関しては 幕末の記録に「堀内蔵頭」としてよく出てきます
衝撃的な事件として 多くの人が記憶していたのでしょう
と いうのもこの方 鳥羽伏見後の江戸城内で まだ議論百出の頃
なんと 御用部屋の便所の前で 切腹してしまったのです
この行為に関して村山摂津守は「発狂したのであろう 世間では(慶喜を)御諫め申したのに
お聞き届けがないので切腹したと 忠義のごとく言うが その実 何にも言わぬ人で
全く迫ったようであるです」
要約すると 追い詰められたような感じで突発的にやっちゃったということかな?
もう一人 堀と同じ若年寄だった立花種恭(たねゆき)も現場にいた一人
すぐに奥医を呼び 縫いかけたところでぱたりと呼吸が止まったそうです
この時期 この様に 幕府と運命を共にする幕臣も多くいました
川路聖謨はピストル自殺
また 土佐新田藩の山内豊福(とよとし)は 夫婦で自害
「あの人は 両方に(官と幕)従うことはできぬと言い 奥方と共に死にました
 たいそう立派な死にようだそうです」と 立花が語っています
もう一つ この人のお話でちょっと胸がつまるものがありますので 書いておきましょう

 ある夜 真っ暗な松の廊下を駆けていきますと 大男が両人で左右からつかまえました
 刺客かと思いまして 誰だと申しますと 和泉(榎本武揚)と讃岐(矢田堀鴻)ですと答え
 上様の思し召しは、と尋ねますから 上にはご謹慎のほかなし と隠さず申しましたら
 両人とも ええ 有難うございますと突っ伏して、
 神祖の千辛万苦してお立てになったこの家をどう遊ばすのです と言い泣き出したので 
 私(立花)も泣き出し 三人で泣きました

真っ暗な松の廊下で 泣き伏す三人 それも一人は若年寄 
あとの二人は海軍総裁と副総裁
なんか せつないですねー・・・・



 
 

[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-18 13:49 | 江戸検定 | Comments(0)

水戸 最後の藩主

a0315830_14302487.jpg
水戸最後の藩主というと烈公・斉昭の嫡子で長男 慶篤(よしあつ)
かと思ってしまいますが 実はその後 廃藩置県までの短い間
弟で18男の昭武が 藩主となっています
慶喜の弟でもあり フランス万博に名代で行ってますね
幼名 余八麿
烈公のお子様たちの幼名は ナンバー制でした
長男こそ 「鶴千代麿」とまともな名前でしたが
以下は次郎麿 三郎麿・・・と 廿二麿まで続きます
わかりやすくていいですね
慶喜は 七男なので七郎麿です
これ 水戸方面にバスツアーに行くと ガイドさんが必ずしゃべります
「水戸の斉昭公の男子 何人いたでしょう?知ってる方いますかー」
はーい、と答えて 上記のことをペラペラ話したら
その後 バスの中は いやーな静けさに包まれました
決して 皆さん やってはダメですよ
KY(空気読めない)だし KSUO(口から先に生まれた女)と呼ばれます
ま、あの時は 私も若かったから・・・

「村摂記」には 長男・慶篤のことも書かれています
慶喜が大坂から帰ってくると 小石川から慶篤が登城しました
「世間では副将軍と呼ばれる水戸様のこと 宗家をお支えするためにいらした」
と 思ったところが これが何と逃げ込んで来たのであったということ
というのも 天皇からの勅使・・・これが京の攘夷派で本圀寺にいた者たち
つまり これまで水戸藩の「柳派」と言われた人たちを 敵と憎んでる者たちが
官軍となって やってくるわけです

  その有様というものは言語道断で 五六十人が 西の丸の玄関から
  大広間に上がり込んで 陪臣が大威張りをする
  驚き入ったです
  ご宗家に対されて 実に失敬なることで 烈公の尊霊も実に ご遺憾に
  ご残念に思召したろうし 藤田寅之介、武田耕雲斎なぞも 霊あらば
  痛嘆しているであろうと思うのです
  
  その者たちの中には 現在威張っているものもいるだろうが
  今にその時の家々の遺憾は 忘却することができぬのです

この時 慶篤は 家老の中山備中守だけつれて 勅書を頂き
水戸に帰ってから 三日ほどで急死してしまいます 脚気衝心だったそうです
慶応四年(1868)4月5日 享年 37才
これからフランスの昭武が帰ってくる11月まで 慶篤は「病気」と
いうことになっていました

烈公の息子たち それぞれ 大変な幕末でしたね

 



[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-17 16:43 | 江戸検定 | Comments(4)

彦根藩 最後の藩主

a0315830_09490408.jpg
さて 村山摂津守の「村摂記」
面白いところ抜き出してみましょう
慶応四年 1月12日 大坂から慶喜が江戸城へ帰還
それからは 城内一同 常務につかず議論ばかり
しかし月末には 慶喜から「領地のあるものは そこへ戻って
朝命を尊奉し 領民が安堵するようはからえ」という仰せがありました
そうしますと それまで戦争するぞ!と 威勢の良かった者たちが
それも大名から 我先に帰国してしまったのですね

 「上州高崎の松平右京亮という人が 歳は若いが陸軍奉行であった
  いつご帰国になるのですか?と問うと 
  かたじけなくもご称号さえ 頂いている自分に何という事を言う
  拙者の家来は小者に至るまで 恐れながらお家(徳川家)と
  運命を共にする!と 泣いて怒ったが この人が第一番に在所へ帰った
  この時分のお大名は たとえ自分は一心不乱に思っても 家来が承知
  しない時は さても仕方がないので 高崎なども初めはそう思ったろうが
  家老が 相成りませんといふと 如何ともするなし・・・」

お大名というのは意気地のないもので 先年 成島柳北が言ったとおりだ
・・・と 嘆いています
成島柳北は 家定・家茂の侍講をつとめた人で 明治からはジャーナリストとして
新政府批判するだけあって 往時から結構きわどいことも言ったようです
  昔から大名は馬鹿なもの 給金をたくさんとっているので 
  いざという時には 命が惜しさに 必ず不忠をします
  決してお役に立つものではありません
成島の言うとおりだ と 村山氏は 怒ってますよ
  それも今まで味方と思っていた尾張・井伊のような立派な御譜代であったものが 
  薩長に赤心を表すためとか言って でたらめをやったからたまらないです

あの小栗上野介を殺したのも 井伊家の手のものだ  とも言っています
しかし 彦根藩はあの事件でまだ13才くらいだった直憲が藩主になりましたから
苦労したと思います
今 大河でもやってますが 彦根藩初代の直政同様
この直憲(上の写真)も 井伊家存続のために頑張った最後の藩主です





[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-16 15:59 | 日記 | Comments(0)

近藤勇は惜しむべき豪傑

a0315830_12331984.jpg
昨日は西村兼文氏の 勤皇派絶賛 新撰組大っ嫌い…をお届けしましたので
今日は一転 薩摩憎し 譜代何やってんの 近藤はいい奴だったよ
という幕臣 村山摂津守のことを書いてみますね
村山鎮(まもる)通称 久五郎
はじめ一橋家の家臣 後に慶喜に仕えて中奥小姓となる
「村摂記」「大奥秘話」などの口述記を残す
元大奥女中の妻・ませ子(天璋院の中臈)は「御殿女中」の口述者
・・・ということぐらいしか わかりません
今回 必死で検索したら 維新後は「農商務省」に勤めたらしいとわかりました
国会図書館に「関東農区実業大会報告」という文書が残っていて
これが「村山鎮」の名前になっています
そして上記の他にも1900年刊行の「茶業通鑑」という著作もありました
この他には ネット上に何の情報もなし!
この時代に Wikiにさえ載ってないって 何たること!
私が 江戸検受験してた10年前 日本史に関する情報なんて 雀の涙
それが今は 初めて聞いたような勤皇志士の名前を検索しても
全部 Wikiがあって「便利ー!!」と喜んでたのに・・・
たまにヒットするのが 昔自分が書いた「江戸東京ときどきロンドン」って!
村山摂津守の「村摂記」 幕臣から見た幕末江戸城内見聞記
とーっても おもしろいのに!

グチが長くなったので 今日はそんな摂津守の近藤勇評だけ上げておきます
 
「(近藤勇は)今 板橋の停車場のわきの畑中に墓ができているが
   中々の人物であった。老爺(自分)なぞも度々はなしたこともあったが
   更に浪人臭みなぞはなくて 万事信切で よく事柄を考えて 粗暴の事は
   微塵もなかった。誠に惜しむべき豪傑だった。」

ほーら 幕臣から見れば こんなに素敵な近藤勇!
 



[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-15 13:34 | 日記 | Comments(4)

近世報国赤心士鑑

a0315830_11503732.jpg
これ ご覧になったことあるでしょうか
明治九年に出版されたもので 安政の大獄の殉難者から
慶応3年までに活躍した127名が掲載されていて
明治初期の人物評価の集大成となっています
編者は 西本願寺執事 あの西村兼文です
「新選組始末記」お読みになっていたらわかるでしょうが
とにかく新撰組をボロクソに書いてる方です
勤皇派であるのだから 当然ですが 粗暴で無知な田舎者の集団で
京の都の嫌われ者…と散々な書きようで ちょっと笑ってしまうくらい
しかし その徹底ぶりが この番付にも生きています
これもう少し大きめの画像があるといいんですがねー
修正したり拡大したりしても 上から五段目の一番小さい文字は
全然読めません
所蔵しているのは 例の東山にある「霊山歴史館」なので
現物はここで見るしかないのかな
読めるところだけでも 拾いだしてみると 安田喜八郎 三好清房
安積五郎 吉田大八・・・など 細かく拾っているのだなと 感心します
江戸の真田範之介も出ていますよ
また知っている勤皇志士が どのくらいの位置にあるかな?と
調べてみるのも おもしろいと思います
あくまで明治9年 維新から近い時期の人物評価
現在とだいぶ違う所が 勉強になりますよ







[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-14 12:50 | 日記 | Comments(0)

鞍馬天狗VS新選組

a0315830_13474894.jpg
鞍馬天狗…それもアラカン=嵐勘十郎の ご存知ですか?
わたし男兄弟もなく 時代もちょっと後に生まれたせいか
オンタイムで見た覚え 聞いた覚え(ラジオで)読んだ覚えもないんです
近所に住んでた従兄弟たちも 覚えている限りでは(風呂敷の)マントつけて
駄菓子屋で売ってるピストルで撃ち合いしてたような・・・
あれは月光仮面だったのかな?
いわゆる「チャンバラごっこ」世代ではなかったように思うのです
なぜ急に鞍馬天狗か・・・というと 先日 宮武外骨氏の本を引っ張り出して
読んでいたら その前書きにこう書いてあったんです
 
 子供のころ、よくチャンバラという遊びをした。敵味方に分かれて「戦う」のだが
 その時、鞍馬天狗と新選組に分かれることが多かった。
 決まって 勤皇と佐幕と分かれるのだが 圧倒的に勤皇に人気があり
 ジャンケンで勝ったものが 鞍馬天狗や高杉や月形になった。


え!あ・・・そうだったの?
そういえば あの頃の時代劇と言えば かならず「勤皇か!?佐幕か!?」と
確かめあってから 斬りあいしてた記憶が・・・
そうかー 鞍馬天狗は勤皇派だったわけね
大佛次郎の小説も「鞍馬天狗を名乗る謎の勤皇志士が 佐幕派の新選組の行く手を阻み
縦横無尽に活躍する戦前の大衆小説」・・・という説明でした。
↑ 上に出した映画版の「鞍馬天狗 角兵衛獅子」のあらすじたるや
 お金を失くして途方に暮れる角兵衛獅子の子供を 鞍馬天狗が助けてやると
 逆恨みした親方が 新選組に頼んで 鞍馬天狗を襲わせる
・・・という まるでチンピラやくざのような役回り・・・!
あー・・・時代は変わったんですねぇ
今では 新選組系のお祭りで 土方・沖田の役どころは 熾烈な競争でしょ?
宮武氏も 前書きを書いた某氏も びっくりなさっているのでは?
ことほどさように 歴史上の人物・団体の評価って 時代とともに移り変わるのですね
そのことを心において 好きなあまりに極端に走らぬよう
粛々と 歴史のお勉強はしないとね・・・と 感じ入った次第です
天狗のおじさん ありがとう!

(ちなみに上のポスターの子役は 美空ひばり!)



 

[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-13 14:45 | 日記 | Comments(6)

高松凌雲の神の家

a0315830_13121401.jpg
市立函館博物館には「高松凌雲コレクション」があります
函館戦争時 函館病院の院長となった彼は 敵味方に関わらず
「患者は全て平等」の精神のもと 多くの傷病兵の治療に当たりました
フランスに医学留学中に出会った「神の家」
貧富の差なく 同じ医者が同じ技術を持って 患者を診る
いわゆる「赤十字」の精神を 堅持したのですね
そのことを象徴して 高松コレクションには 薩摩藩士や松本良順
慶喜からの書面や寄贈物が あります
旧幕からも新政府からも 感謝を受けたのでしょう
郷里の福岡県小郡(おごおり)市では 昨年「生誕180年 没後100年祭」の展示会があり
函館から 医療器具などが貸し出されたそうです
地元には立派な顕彰碑もたっているようですね
函館在住だった家人の父も この函館病院で最期を看取っていただきました
函館戦争で胸に被弾した伊庭八郎も ここに運ばれ
旧幕軍で戦った凌雲の実弟・古屋佐久左衛門も 五稜郭で艦砲射撃により重症
四日後に亡くなっています 享年37
最期はやはり 函館病院で 兄・凌雲に看取ってもらったのでしょうか
五稜郭タワーの入り口壁画には この佐久左衛門の姿もありますよ

戦いの中で倒れた弟と 救おうとした兄 これもまた幕末維新の数奇な運命といえるでしょうか

[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-12 15:03 | 日記 | Comments(2)

美加保丸と消えた100億円

a0315830_16420463.jpg
慶応4年 八月二十日 品川沖から出帆した榎本武揚の船隊の中に
美加保丸という輸送船がありました
元々はプロイセンで作られた商船「ブランデンブルグ」といい
長崎に来ていたところを 幕府が買い上げた800トンの木造帆船でした
この船には 武器・弾薬と共に 遊撃隊を含む旧幕士が612人 乗っていて
この中に 伊庭八郎もいたのですね
この船は 旗艦「開陽丸」に ケーブル二本で曳航される形でした
しかし この翌日 鹿島灘に差し掛かったところで台風に巻き込まれ
美加保丸は ケーブルが切れて 荒波に翻弄され漂流
犬吠埼近くの黒生浦(くろはいうら)で座礁・沈没してしまうのです
上の写真は この時の水死者のためにたてられた慰霊碑なのですが
一般には 「脱走塚」と言われています
伊庭八郎らは 逃れますが 高崎藩にとらえられ処刑された者ももいます
この銚子辺りは 高崎藩の飛び領があって 陣屋もあったのですね
さて この美加保丸
実は 大阪城から持ち出された二分金 18万両が積んであったというから お立合い!
18万両は今のお金にしたら 100億円くらいなんです
年末ジャンボに15回くらい当たらないと追いつきませんね
もし この事実を知っていたら 誰かが引き上げようとは思わなかったのかしら
私だったら とりあえず現地にかけつけて「素潜り」から始めるのに・・・
昭和になってからやっと 12年に「いなむら」というサルベージ会社が
46年には 青森の「こみやま」という会社が 引き上げを試みていますが
金目のものは何一つ発見されず 今に至っています

海に眠る100億円
お近くにお住いの江戸検仲間 誰か挑戦しませんか? 一口のります!
 

[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-11 17:38 | 日記 | Comments(2)

ラスト・ダイミョウ 林忠崇

a0315830_12180966.jpg
伊庭八郎が 遊撃隊のメンバーと共に「一緒にドンパチやらない?」と
勧誘に行ったのが 請西(じょうざい)藩主・林忠崇(ただたか)
上総請西藩は 譜代一万石で 木更津あたりにあった藩です
江戸検テキスト「疾走!幕末・維新」の(P173 最後の藩主たち)にも載っていますね
この林忠崇さん とにかくユニークな方
「トップが脱藩しちゃえば 問題なくない?」と 藩主自ら脱藩届を出したんだそうです(誰に!?)
これが謀反ととられ 結局江戸最後の改易大名となりました
忠崇は 家臣70名ほどを率いて 遊撃隊に参加
鳥羽伏見の戦いが始まると 新政府軍の東征を 箱根の関でくいとめようと出撃します
伊庭八郎が 小田原藩士・高橋藤五郎(鏡心一刀流)に手首を皮一枚残して
切り落とされるのがこの時ですよ
この後も 仙台まで転戦しますが 伊庭八郎は乗っていた美香保丸が 銚子沖で沈没して一時離脱
忠崇は 仙台で「徳川家存続」の報を受けて 「じゃあこの辺でいいか」と 投降するんですね
この人 脱藩といい 投降といい とにかく決断が自由!
その後も 元領地で百姓やってみたり 商人に鞍替えして番頭になったり
自由に生きて 家名回復で華族に戻ると 娘の嫁ぎ先で余生を送り
昭和16年 まちがいじゃありませんよ 昭和16年!
娘の経営するアパートの一室で逝去   享年92才
↑上に出した本で くわしく読めます
最後まで 生き残った「ラストダイミョウ」として 晩年はいろんなインタビューに答えています
嘉永元年 江戸に殿様として生まれ アパートで逝去
まさに 近代を生き抜いた感がありますね
亡くなるときは 「面白き人生であったことよ」と 思ったでしょうか
思ったならいいな・・・









[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-10 12:55 | 日記 | Comments(0)

伊庭八郎を偲ぶ会

a0315830_12250706.jpg
「旧幕府」の三巻八号にこんな記述があります
 
 明治32年(1899)に 東京で開かれた伊庭八郎を偲ぶ会で
 「八郎君の墓は 五稜郭、土方歳三君の墓の傍らにある」という発言があった

と いうものです
これを根拠として 一時 土方の墓探しの機運が高まったようです
結局は 特定されていないのですが 一方伊庭さんの埋葬地は
大正期の調査で 特定された…という写真付きの記事を わたし持っています
いかんせん 写真のみで それもひどく小さく どこなのかちーともわかりません
写真は個人蔵…と書いてあるだけですしね
まあどちらにしても 上野同様 遺体はしばらく野ざらし状態で
見かねた善意の人々の手によって 何か所かに埋葬されているのですから 
個人の埋葬地の特定は無理でしょう

それとは別に 伊庭八郎を偲ぶ会・・・と言う方が気になりません?
調べたら これ もしかしたら今もあるのかもしれないのですよ
最近では 平成10年に「八郎忌(朝涼忌)」があり 沼袋の貞源寺の伊庭家墓前で
心形刀流の演武が行われたそうです 
御徒町の練武館の流派を継ぐ方たちが ご健在なんですねー
上の絵では 名前も「七郎」と変え 打ち落とされた手首も右(実際は左)
になっていますが 名前を変えても 描くくらい人気があったってことなんでしょう
ましてや 弟の想太郎(星亨を刺殺して 明治36年獄死)が 兄を敬愛し
道場に その肖像をずっと飾っていたということなので 
その壮絶な剣客人生が 語り継がれたのかもしれませんね



[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-09 13:08 | 日記 | Comments(2)

函館市 中島三郎助の町

a0315830_13400476.jpg
函館に中島町ってあるの知ってる? と家人に聞いてみました
「知ってるさー 実家の近くだよ 五稜郭から函館山の方に一キロくらいー」
さすが 地元民! じゃあ中島町は誰の名前をとったか知ってる?
石碑も立ってるよ
「えー 中島だろ?えーと・・・あ!中島みゆき!」

・・・・・かわいいお馬鹿さん・・・・

中島三郎助の名前は 江戸検テキスト「疾走!幕末維新」の最初のページに
出てきますから みなさんご存知でしょうが
函館には 立派な石碑が立っていて 毎年五月の「五稜郭祭」では
ここから「碑前祭」が 始まります
この石碑のある中島町(中島小学校から千代台運動公園にかけて)は
函館戦争の時の千代ヶ岡(岱)陣屋だったのですね
長崎海軍伝習所の一期生であった中島三郎助は 
浦賀奉行所与力として ペリーに対応したことが有名です
戊辰戦争では 榎本武揚と行動を共にし 函館にやってきます
その最後は 五稜郭への撤退勧告も 新政府軍からの降伏勧告も拒否
五稜郭降伏2日前の明治2年5月16日 長男の恒太郎・次男の英次郎
腹心の柴田伸助(浦賀組同心)らと共にこの場所で戦死しました
享年49 菩提寺は横須賀市東浦賀町の東林寺です

昭和六年千代ヶ岡一帯は 親子ともども旧幕府に準じた彼の名前を
町名とすることに決まりました
五稜郭祭では 榎本武揚と黒田清隆に扮した維新行列の一行により
手厚く慰霊されていますよ



[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-08 14:28 | 日記 | Comments(2)

戦友姿絵 中島登


a0315830_09383853.jpg

新選組の「戦友姿絵」出してみました
左上 近藤勇        右上 中島登(自画像)
左下 山口次郎(斎藤一)  右下 土方歳三
これを含め 全部で26枚あります
所蔵しているのは 函館の市立博物館(青柳町・本館)
私は ずいぶん前ですが 五稜郭で見た覚えあるんですがね
巻物に 並べて張り付けた形であったように記憶しているのですが・・・
現在ネットで確認しようとすると 小さすぎて 拡大しても文字が読めません
みなさん 何で読んでるのかしら?
「新選組史料大全」ですか?  あれ二万七千円とかしません?
お金持ちなのかしら そうなのかしら
新人物往来社の「新選組史料集(正続)」だって 結構お高いですよね
地元の図書館では 「大全」はありますが「帯出禁止」ってやつです
図書館に通って ちみちみ読むしかないのですが
いつ来ても新選組の資料読んでるおばさん・・・痛くないですか?大丈夫?
函館近辺の方は 昨年に展示があったようですね
この時に 作者・中島登の一周忌に 記念「盆栽大会」開催という
手書きのポスターが 一緒に展示されていました
なぜ「盆栽」・・・・?
中島登は 明治20年 浜松市で亡くなり お孫さんは猟銃店をしていて
まだご健在のはず
盆栽がお好きだったのか お尋ねしてみたいです
ともかく 何であれ一周忌の催しが開かれたということは
地元とのつながりが 途絶えなかったということなのでしょうね

今日はこの辺で・・・


[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-07 11:02 | 日記 | Comments(4)

イケメンは土方だけじゃない


a0315830_11443604.jpg

今日は この写真 
右上の白服の人に注目してください 
結構 イマドキのイケメンではないですか?
「函館戦争」に参加していた人で 誰でも知っているはずですよ

明治2年(1869)5月11日 午前3時
函館の町は すさまじい艦砲射撃の音に包まれました
榎本武揚総裁(34)ら旧幕府脱走軍に対し 新政府軍の海陸からの
一斉攻撃が 始まったのです
陸軍は 輸送船「豊安」「飛竜」から770名に及ぶ兵を送り出し
海からは「陽春」「春日」「甲鉄」「朝陽」「丁卯」が支援の艦砲射撃を
行いました
圧倒的な兵力の差に 旧幕軍は撤退を余儀なくされ
大野右仲は 援軍を要請するため 五稜郭へ馬を走らせました
大野が 一本木関門を超え 千代ヶ岡陣屋に着いたとき
市中に出陣しようとする土方歳三と出会います
この時 すでに開戦から四時間半が経ち 敗色は刻々と濃く成り行きます
しかし 大野が土方と共に 一本木に引き返し始めた時
旧幕軍に唯一無傷で残っていた軍艦「蟠龍」の砲弾が火を噴きました
そしてその砲弾は なんと新政府軍「朝陽」の火薬庫を直撃したのでした
旧幕軍の気勢は 一気に上がりました
この時 「朝陽」の僚艦「春日」の砲台にいて
爆炎と共に沈みゆく「朝陽」を 呆然と見つめていたのが 写真の白服の人   
東郷平八郎
です
のちの連合艦隊司令長官となる東郷も 時に弱冠23才
ただただ 手をつかねて見ているだけのハンサムボーイでした




 


[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-06 14:00 | 日記 | Comments(0)

函館戦記 その他

a0315830_11151353.jpg
先月「心停止」からよみがえった家人は 函館の人です
それも五稜郭町に住んでいて 私も帰省した時 歩いて五稜郭行きました
歴史オンチの家人が 唯一知ってる名前が 土方歳三・・・むべなるかな
五稜郭の航空写真を見せてみると 「あ、ここが湯の川だから ここら辺が一本木」
と グーグルアースなみに ピンポイントで 土方最後の碑のあるあたりを特定しました
あなたが この方面で役立つとは 思ってもみなかったよ
「だって顔が似てるじゃない、土方と僕。生まれ変わりかもしれない」
しゃあしゃあと言い放ちましたが あなた入院中は 看護師さんたちに「黄泉返り」って
呼ばれてたから

とにもかくにも 戊辰戦争のクライマックス「函館戦争」に関する記録
今は 国会図書館デジタル もしくは函館市のデジタルで ほとんど読めます
「函館戦記」大野右仲(うちゅう)は 「小笠原壱岐守長行」に所載した漢文のが
国会図書館で公開され 原本は函館のデジタルで読むことができます
「立川主税(ちから)戦争日記」も 国会図書館デジタルで
その他 「松本良順自伝」には 仙台滞在中 土方が語ったこととして
 
 そもそもこの戦いに私が立ったのは 三百年の歴史を持つ幕府が倒れようと
 している時に 誰一人として腕力に訴え 死のうとするものが無いことを
 恥じてのことだ。到底勝算があってのことではない。

という一文がありました
ああ・・・やはり死に場所を求めていたのですねー

家人の縁もあり 函館戦争に関する資料は 結構読みました
幕末きらい・・・と言いながら えらいでしょ? ほめてね
明日からは その周囲のことを ポチポチ書いていきます 
 


 



[PR]

# by tukineko-diary | 2017-09-05 12:21 | 日記 | Comments(0)